本件事案において、未払い賃金問題は単独で推移したものではなく、「700日の就労不能を伴う労災認定」と密接に関連して処理されました。 開示された行政文書や関連資料を客観的に整理すると、労災認定の手続きが未払い賃金の存在を公的に可視化させ、その後の行政および企業側の対応(供託による処理等)に影響を与えた構造が見えてきます。

事実関係に基づき、その処理のプロセスと制度上の限界を検証します。

1. 労災認定による「未払い賃金」の不可避な可視化

当初、未払い賃金については労使間で認識に相違がありました。しかし、労働基準監督署によって長期の労災(休業)が認定されたことで、行政は法律に基づき「休業補償給付」を算定・支給する義務を負うこととなりました。

実際の公文書である『休業補償給付調査復命書』には、平均賃金を算出する過程として以下の記載が存在します。

「事業場は請求人からの申し立てに基づき、請求人の在職時における未払い賃金について調査を行っており、『追加支給予定時間外手当』としている。(中略)本件は、休業補償給付請求がなされたことから、これをもとに平均賃金を算出することとしたい。」

この記録が示す通り、労災認定に伴う休業補償の算定手続きが行われた結果として、行政の公文書上に「企業側に未払い賃金(時間外手当)が存在する」という事実が明確に記録されることとなりました。

2. 同一署内で生じた「判断の停止」と自己矛盾

労災担当部門によって未払い賃金が公文書に記録された一方で、法令違反に対する指導・是正を担う監督部門は、その事実に基づく積極的な違法性の判断を行っていません。

実際の公文書である『2022年8月15日付 労基署相談票1』には、労災課からの説明後に副署長が対応した記録が残されています。そこには、労働者側からの自己負担や不当な給与控除等に関する訴えに対し、「監督署としては何とも言えないと伝えた2」「情報として記録すると回答した」と記載されています。

同じ労働基準監督署内でありながら、一方は休業補償算定の前提として未払い賃金の存在を記録し、もう一方は関連する給与問題について「何とも言えない2」と判断を留保する。この公文書上の記録は、行政機関が自らの調査権限に基づく実質的な違法性判断を停止させていたことを客観的に示しています。

3. 司法警察権の不行使と「形式審査」への便乗

公文書上に未払い賃金(労働基準法第24条違反)の存在が確認された以上、本来であれば適正な処理が求められます。労働基準監督官は労働基準法第102条に基づき「司法警察官」としての権限を有しており、法令違反が確認された場合には刑事事件として立件し、書類送検を行うことも制度上は可能です。

しかし、政府の公式見解として、衆議院の「労働基準監督機関の役割に関する質問に対する答弁書3」において「労働基準監督官が、労働基準法上、同法に違反して支払われていない賃金の支払を命ずる権限を有していない」と明言されています。さらに開示された総務省の答申書4においても、「直ちに強制力を有する司法上の権限を行使するのではなく、まず、強制力を有しない行政指導である是正勧告を行い、自主的な改善の報告を受けて履行確保を図ることを基本としている」との行政側の認識が記録されています

行政にとって、未払い賃金(労働関係法令違反)が存在したままの状態が継続することは、雇用関係助成金の受給要件(労働関係法令違反がないこと)等、他の制度との関係において重大な課題を生じさせる要因となります。 一方で、企業側は「未払い賃金の算定根拠は示さないまま、自社が定めた振込依頼書が返送されないため受領拒否とみなし、法務局へ供託した」と説明し、法的な弁済の手続きを実施しました。

しかし、すでに企業が労働者の給与口座を把握しているにもかかわらず独自の書面提出を条件とした点や、算定根拠・控除の前提が示されず債務全額が提供されているか検証不能である点において、この供託は民法上の有効要件を欠き、無効と評価されかねない状態にあります。 法務局は書面上の記載を確認する「形式審査権」しか持たないため、企業が作成した「受領拒否」という供託原因をもって受理せざるを得ません。それにもかかわらず、本来は労働基準法に基づく「実質的な調査・捜査権限」を持つ労基署が、この法務局の形式的な受理に便乗し、供託の有効性に関する実質的な検証を放棄したと評価され得ます。

結果として、行政は書類送検等の権限を行使することなく、企業側が「供託」という外形を整えた事実をもって「必要な調査等の対応は全て完了している」として処理を終結させるに至ったものと整理できます。

■ 結論

本件における未払い賃金問題は、労災認定に伴う休業補償算定の必要性から、図らずも行政文書上にその存在が確定することとなりました。 しかし、「書類送検等の権限を有しながらも、直接的な支払いを命じる強制力を持たない」という労働行政の制度的限界と、事案の長期化や他制度への波及を回避する状況から、企業による「無効と評価されかねない条件の供託」という対応をもって、実質的な算定根拠の検証等が行われないまま形式上の「処理完了」として扱われる結果となりました。 公文書に記録された「何とも言えない2」という行政の言葉は、個別の担当者の問題にとどまらず、日本の労働保護システムが抱える構造的な課題を如実に物語っています。

Footnotes

  1. 20220815労基署相談票

  2. 労基署相談票に平然と残された「調査義務の放棄」 2 3

  3. 質問名「労働基準監督機関の役割に関する質問主意書」の経過情報

  4. 000510764